PC版(Steam版)ぷよテトのレートを15000にした。
8機種目の同タイトルを、延々と初心者狩りしながら600戦ちょっとこなしたことになる。
時間の無駄感が半端ではなかったが、心を殺しながら没頭することには比較的慣れている。
そんな中まだ救いようがあったのは、やっぱり色々な種類のゲームを久々に楽しめたことだ。
フィルターが機能するようになってからはVSとスワップだけしか触っていないが、
ぷよぷよとテトリスが平均水準以上にできるのはかなり大きく、VSだけでも4種類の組み合わせのマッチングを堪能できた。
久々にやるテトリスはやっぱり楽しい。
それでも、日本でこのタイトルの変遷を追ってきたユーザーには正直限界が来ている。
◆既往のゲームを全く変わらず再度やりこむのは『政治的な』心理側面がある
稼働初日。ソウマくんやTSくんが頑健にやりこんでレート上位に行くも、やはり10000前後で歩みが止まってしまった。
とてもわかる。我々はゲームに新しい体験を求めているのであり、既得体験を繰り返すのは本当にツラいのである。
ゲーム性に変化がないという事実は確実に、着実に心を蝕んでいく。
しかし、今回既往のものとは全く異なる要素がひとつある。
全世界ユーザーとの交流である。
…というか、それがなければ改めてプレイするわけがない。
いや、厳密には世界展開はSwitch版が最初なのだが、俺はSwitch版を購入しなかった。
本当にSEGAが大真面目に全世界共通のプラットフォームを用意するつもりなら、PC版は必ず出ると踏んでいたからだ。
もし出さないのならば、最初から生半可な形だけの展開であることは想像に易く、鋼のワンスルーを決め込んだというわけだ。
そう考えると、内容の変わらないこのゲームを再度やるための自身のモチベーション管理が必要だという部分に行き着いた。
同じゲームを常に追い続けると間違いなく心が死ぬと分かっていた俺は、そういう意味でも尚更Switch版を触れなかった。
「ゲームをやるためにゲームをやらない」という意味不明な状況に陥っていたのだ。
そんなこんなで、例えば元々日本発のゲームで日本のランカーがレート戦上位にいない状況は世界から見てよろしくないだろうだとか、
国内でもpublicな大会での実績がある人間の方が周囲から見たら説得力や影響力があるだろうだとか、
どうでもいいごちゃごちゃーっとしたことをゲーム内で考えさせられる機会が非常に増えてしまった。
覇王の慧眼なんてまさしくそういった意向の集大成みたいなコンテンツである。
これらを踏まえてゲームをプレイしたり、情報発信したりすることを俺は『政治的なゲームへの注力』と呼んでいる。
◆対戦ゲームが発展するのに最も大事な要素は“人”
どうして単なる1ユーザーに過ぎない俺が『政治的なゲームへの注力』を考えなければならなくなったか。
そんなの答えは明白で、SEGAがぷよぷよシリーズに対する企業努力を怠っているからに他ならないのだが……
個人単位で言うなら、界隈発展のために何かできないかと考えた時に、できることがこれくらいしかなかったからである。
まず、自分が何故そこまでぷよぷよ界隈に入れ込むのか?ということを考えてみる。
これもまた単純明快で、ぷよぷよ自体がゲームとして面白いということよりも、圧倒的に同時代にいた人間達自体がメチャクチャ面白いやつらだったというのが大きい。
相手が面白くもないしムカつくだけのやつらだったら、そりゃずっとネット対戦に籠って口もきかないのは安易に想像できる。
つまるところ、帰結するのは“人”の持つコンテンツ力なのである。
おもしれーやつがいるから、ゲーム性が何も変化しなくても人は残るし、界隈が続いていくといった寸法だ。
逆に言えば、人がいなくなった時がそのタイトルの寿命ということになる。
そんな中で新作が出るというのは、新たな“人”との出会いの大チャンスであり、我々の人生の潤いにも直結するであろう出来事なのだ。
だからこそ、初動は非常に大切であり、やるぞ!と腹づもりを決めたなら自ら舞台に躍り出るべきだと思っている。
Steam版、最初期15000帯到達の舞台メンバー。
ookamisuketoudaraさんはメキシコの方で日本語が結構達者でフォローしたら一瞬で日本語のDM飛んできたし、
Doremyちゃんはフランスの方で東方ポタクでスワップも結構強い(俺が負けたリプレイあがってる)し、
WumboさんはなんかよくわかんないけどなんかDoremyちゃんが貼ってた表でBlinkの上にいたから多分テトリスすげー人なんだと思う。
てな具合に、ランキングの上位ってなんだかんだ名前が売れるし、お互いにチェックしているのだ。(そういう意味でもレートが消失するバグは本当に頭に来る)
特に今の時代、名前さえわかればTwitterなりでいとも簡単に交流できる。というよりも交流ツールを持たない古代人や偏屈者の方が一般的に見るとおかしいワケなのだが。
海外の15000帯の彼らとは、Steam版をプレイしてなかったら一生接することがなかったかもしれない。
◆『政治的に』ゲームをしすぎると病む
そうなのである。
いくら“人”との繋がりが宝であり、それが増えるからと言って、「皆さん既にやったことあるとは思いますが4日で40時間ゲームをしましょう!」と大衆に向けて発信できるはずがない。
同様に、誰とは言えないが誰かしらが「リーグ戦の門番を一人で行い、全員と何度も30先をしましょう!」などとも到底言えないはずである。
どっちも人間が楽しむ範疇を越えている。
(本ブログはウン百先しようとか言ってる人間も基本的に頭がイカれていると思っています)
そうなってしまうと、だんだん自分が何のためにゲームをしているのかわからなくなってくるのだ。
どんなに全体のことを考えていたとしても、ゲームに義務は存在しない。優先されるべきは個人の心情である。
誰かにゲームを楽しんでもらいたい一心で、自らがゲームを楽しめなくなっては本末転倒ではないのか?と俺は思っている。
今まで最前線でプレイしてきた人間だって同様だ。少し走り続けるのを休んだところで、全く批難されるいわれはない。
だから周囲で「こいつゲーム頑張りすぎてないか?」と思しき人がいたら、そっと慮ってやってほしい。
その人もまた最も大事な“人”の一人であり、決してその心を殺してはならないのだ。
読んでくれてありがとう。
あっ!
やめろ!!
覇王の慧眼を更新してない言い訳では断じてない!!