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僕が「ゲームしかできないアホ」だった話

 

りべです。


7月初投稿ですね。

 

 

昨日のヒアリング会で飛車ちゅうに「三日坊主じゃん」って煽られて

はあ~~~~??

って頭に来てこれを書いてます。

 

 

 

 

飛車ちゅうに煽られたのは別に全然関係ないんですが、これね。

すごくトッププレイヤーを良く言ってくれてるのが伝わります。


この発言が出た背景はよくわからないんですが、僕達にとってとてもありがたいことです。

 


ただね、すごーく違和感があるんですよ。

僕はもう如実に言うのがモットーなんで、はっきり言います。

実力のあるプレイヤーでも、モラルのない人は探せばいくらでもいます。

 

 

 

 

これだけ書いてると、「トッププレイヤーのブランディング施策ぶち壊しやないかい!」って随所から怒られそうなもんなのですが、まあ僕のブログではいまさらです。
というよりゲーマー全体を美化しすぎるの、本当によくないんですよ。ギャップで逆にイメージを落としかねない。


大半のプレイヤーなんて、何か最初から特別な意志を持ってやっていたわけでもなく、惰性の先で実力を得たってパターンばかりですから。
規範的な行動の意識が追いついていないのなんて、ごくごく自然で、当然なんですよ。それを、根本から捻じ曲げちゃいけない。

 

 

 

僕的解釈だとですね、実力があって、自らの綺麗ではない部分に気付いて、それを正した人間こそがトッププレイヤーと呼ばれるんじゃないか?と考えてます。

いや、むしろ逆ですね。

そういう正しい人達をトッププレイヤーと呼びたいんですよ。僕達は。

 

 

たぶん、この話をするには、僕がイ

ンモラルで無駄に強いクソプレイヤーだった過去を紐解くのが手っ取り早いんじゃないかと思います。

 

 

 

 

 

・『ぷよぷよが強い』ことを精神の拠り所にする子供だった

かつて僕は、やりたいことを抑えつけられて育った経緯がありました。
その反動で、「自分のやっていることを認めて欲しい衝動」が抑えられない子供だった気がします。
いわゆる、自己顕示欲ってやつですね。

 

 

 

 

そんな子供が、偶然ぷよぷよというゲームを昔からやっていました。
そしてたまたま、ネット対戦において、結構な実力を誇っていました。多くの人が、僕の実力を認めたり、はたまたそんなことないぞと叩いたりしました。
結果は目に見えていて、僕はぷよぷよという媒体で初めて人から認められる成功体験を得たことで、ぷよぷよに対して依存するようになっていきます。

 

 

 

 

生きている意味が、ぷよぷよで認められることでした。他のことには目もくれません。
そのため、色々なことを飛ばし飛ばし生きることになり、人との折衝方法だったり、自分の意志で考えることだったり、苦手なことがそのまま積み上がっていきました。
かわりに、ぷよぷよの実力はどんどんついていきました。

 

 

 

 

ついに「ゲームしかできないアホ」な子供は、上京しました。ぷよぷよが最も強いと呼ばれるプレイヤー達が、ACでプレイしていたから。
そこで、Tomとかいうやつに出会い、鼻っ柱を叩き折られます。

www.nicovideo.jp


子供は気付きました。(あいつは、オレの上位互換じゃないか?ならば、オレの存在する意味って、なんなんだ?)
『ぷよぷよが強い』というアイデンティティを失い、精神的に不安定で常識のない子供が、そこに残されました。

 

 

 

 

恐ろしい話ですよね?
何が恐ろしいかって、こういう子供が偶然誰にも負けなかった場合、自分の歪さに気付かないままタイトルの頂点として扱われ、永遠に持て囃されるからです。
挫折したり、成長するチャンスを得られないまま、立ち位置を得てしまうゲーマーというのは、別段珍しい話ではないのです。

 

 

 

 

何より僕がACぷよ界隈に感謝しているのは、こういうアホな子供を見捨てず、面倒を見てくれたことなんですよ。


毎週終電をなくしてアポなしで人の家にあがりこんで、勝手にお菓子食ったり飲み物ひっくり返したりするようなクソガキに対して、
「いやいやゲーマーってそんなもんだし、おもしれえじゃん」で済ましてくれて、居場所を与えてくれた。


※当然、何かやらかすたびに教えてもらって素直に重々謝っていましたし、半べそかいてたこともあります

 

 

 

 

なんだろう。ゲーマーのそういう部分って、e-sportsみたいな脚光を浴びるところとはかけ離れてるけど、間違いなくいい部分なはずなんですよね。

 

 

 

 

・『誰かをネタにする』ことを精神の拠り所にする大人だった

さて、ぷよぷよが強いことに挫折を感じた子供は、ほどほどにぷよぷよと関わりながら、テトリスや麻雀など様々なものに手を出します。
その中で、特に人との交流が増え、失っていた常識を埋めるかのように多くのコミュニティと接点を持ちました。
ある意味、ひとつところに留まらない動きをしていたとも言えます。そうやって、子供は大人になりました。

 

 

 

 

リアルで人の家に図々しくあがりこむのが得意技だった僕にとって、それぞれの身内コミュニティに入ることは造作もないことでした。
どこも狭い関わりながらに、それぞれのタイトルの特色が出たような、面白い方々の集まりでした。
ゲームの上手い下手を度外視した関係の築き方を、ここで改めて学んできたような覚えがあります。

 

 

 

 

そんなつながりの中、どのゲーマーコミュニティ内に属しても必ず直面してきたのが、程度の差こそあれ、『誰かをネタにする』行為でした。
ひどい場合は、完全な悪口や陰口のような貶める行為もそこかしこで横行していました。

 


そして僕は、そのネタに積極的に乗ることでその「誰か」より上に立ったような気分になり、精神の安寧を保っていました。

 


無意識に、自分のために、人を貶めることを全く悪いこととすら認識していませんでした。

なぜなら、“みんながやっていること”だから。

“みんなに合わせられる”のが大人だから。

 

 

 

 

正直これ、結構な大人に刺さる話ですし、ムッとする方も多いんじゃないかなと予想してます。
本人同士の程度問題なので、一概に悪いことだ!なんて言うつもりは全くないです。でも、度を超しているケースは何度も見た気がします。


特定の人間を貶めて喜ぶような行為は、何かしらのコミュニティに属する以上おそらく回避のしようがないです。
一緒に低俗になって楽しむか、その場は合わせるか、話半分に流すかくらいになると思います。

 

 

 

 

「ゲームしかできないアホ」な大人であった僕は、自分の弱さがゆえに、自分から他人を下げて精神的な安定を図った。
曲がりなりにも、トッププレイヤーなんていう偶像とはかけ離れてたんじゃないかなと自省している部分です。

 

 

 

 

・『目指すべき夢』を精神の拠り所にするプロになった

2年前、僕は公式大会で優勝しました。
全部の行動が規範的にはなれずとも、「ゲームしかできないアホ」な大人には、ぷよぷよに対する未練が捨てきれなかった。
そういう活動が実を結んでか、幸運なことにプロライセンス発行のお誘いをいただきました。

 

 

 

 

すごく、考えました。
時が経つにつれて、身内コミュニティと世間との隔絶はさらに進んでいました。
これまでの行動が規範的とは言い難かった僕が、プロの道を選ぶことは批判の対象になるだろうなという懸念。
何より、『誰かをネタにする』という浅ましい拠り所を自分から捨てるという決断をしなければいけない覚悟。

 

 

 

 

考えて考えて思い出したのは、『ぷよぷよが強い』ことを拠り所にしていた頃の、純粋にぷよぷよにまつわること全てが楽しかった気持ちでした。


(ああ、じゃあもう素直にやろう。やるからには、本気でやろう。後悔しないようにやろう。)

 

 

 

 

そんな刷新された気持ちで、初動が良かったのが原因なのかはわかりませんが、プロになってから多業界の方面での出会いに恵まれました。
僕の元に、様々な視点からの情報が入りこむようになり、今まで属していたコミュニティがいかにちっぽけなものであるかを感じさせられました。
特に、「ゲームが強いこと」はゲーマーにおいて本当にただの一要素でしかなかったことに気付かされるのです。

 

 

 

 

別界隈の情報を集めてくること。
人前で筋道立てて喋ること。
文章を書いてコンテンツを作ること。
誰かにものを教えること。
面白い企画を立てること。
立案を行動に移してやり抜くこと。
自分の売り込み方を考えること。
タイトルの宣伝方法を考えること。
機材環境を整えること。
活動資金を調達すること。
新しい楽しみ方を見つけること。
多くの人に愛されること。

 

 

 

 

こういった総合的なところを含めて、ゲーマーの評価なのだなという考え方を得ました。
奇しくも、これが子供の頃に挫折した僕の感情(あいつは、オレの上位互換?)に対する完璧なアンサーとなったわけで。
こんなにも多分野に渡っている評価基準で、全部において劣っているなんてことがあるはずがないんですよ。

 

 

 

 

なのに何故か、子供の頃の僕も騙されたように、ゲーマーのコミュニティではゲームの腕前だけが圧倒的に優先される評価対象になっているんですよね。
不思議なものです。

 

 

 

 

だからとりあえず、これらのことは試しにまず気付いた僕が全部やってみようと考えました。
色々な仕事を実際に体感してみないと、周りの人のその仕事への向き不向きが判別できないからです。


僕にできることはなんでもやりたくなっていました。

 

 

 

 

それはきっと、ぷよぷよの価値を企業に認めてもらいたいとか、もっと世界に広まって欲しいとか、『目指すべき夢』が拠り所になっているのでしょう。
何だかもう、「これを目指すには、これをやる!」みたいな感じで勝手にエンジンがかかるんですよね。


気付いたときには、「ゲームしかできないアホ」をいつの間にか卒業していました。

 

 

 

 

・最初から素晴らしいものなんてない


結局何が言いたいかって、ゲーマーの大半は元から素晴らしい人間なんかじゃないんですよ。もっとね、ハードルを下げるべき。
紆余曲折あって、一部の人間が発奮して素晴らしい人間になる。そういうもんだと思います。
その素晴らしい人間に対して、僕らはトッププレイヤーという相応しい栄誉をつける。といった構図なのではないでしょうか。


こういう言い方すると自分で自分のこと素晴らしいとかトッププレイヤーとか言ってるみたいで大分引くんですけど許してください。

 

 

 

あと、こういうモノの見方も、教育×心理×ゲームの複合スキルなのかなって気持ちがあって。
なんだか僕は当たり前のように思っていることだけど、多分誰もが考えつくことじゃないんだよなあというか。
ゲームと何かを掛け合わせて見えてくるものって間違いなくもっと数多く存在すると思うんですよね。

 

 

 

例えばなんだろう。ゲーム×不動産でネット回線の早い家が見つけやすいとか。
ゲーム×起立だと地縛霊になるとか。

 

 

 


結局誰かをネタにしてんじゃねえかっていう。

ソーリーちょもす。

 

 

ではまた。