今更ながら、ブログにタイトルを付けました。
ゲームという言葉は今現在、まさしく坩堝(るつぼ)です。
元々娯楽が発祥であり、「遊び」の代名詞でしかなかった言葉ですが、
プロゲーマーという職業が認知されるに伴って、「仕事」を示す用途が生まれてきました。
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今更ながら、ブログにタイトルを付けました。
ゲームという言葉は今現在、まさしく坩堝(るつぼ)です。
元々娯楽が発祥であり、「遊び」の代名詞でしかなかった言葉ですが、
プロゲーマーという職業が認知されるに伴って、「仕事」を示す用途が生まれてきました。
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昨日、「3日連続更新だ!イエーイ!」的な記事を書いていたんですが、深呼吸した結果ボツにしました。
なんでかっていうと、今の職場に対する不満を赤裸々に書きすぎていたせい。
書こうと思った原動力が鬱屈した感情なのであれよあれよという間に筆は進んだのですが、
これを今の状況でネットの海に載せること、リスクしかなくねえか?と一先ず冷静になったのです。
私はムカついたらムカついたことを、表現の仕方こそ色々あれど何らかの形にしちゃうタイプなので
正直短気だなぁと自覚してるところがあります。
根本の性格こそそう容易に変わるものじゃありませんけど、実際の行動自体はプロセスを噛ませれば改善できます。
つい先日も、知人から「最近お前やってることめちゃくちゃじゃない?頭大丈夫?」的なことをシリアスに言われたもんで、
(あぁ!?喧嘩売ってんのかオメー!!)ってな感じで一瞬で頭に血が上ってしまい、脊髄カウンターリプを飛ばしそうになりました。
が、ここで一旦冷静になって、相手の思考をトレースするプロセスを挟んでみます。
(彼はいい加減なことを言うような人ではないはずだ。)
(彼はどういうつもりで私にそういう提言をしたのだろう。)
(彼から見た私の行動はどう映っているだろう。)
というようなことを一つ一つ想像してみる。
そうすると、
(ああ、言い方はあれど、彼は私を心配してくれているんだ)
と、目の前が曇って見えていなかったことが再認識できます。
そのおかげで、
「私はこういう風に考えているけど、確かにそういう部分は改めるべきかもしれない。心配してくれてありがとう。」
という返答をすることができる。
想定していた自律に反するだとか、衆目の面前で恥をかかされるだとか、そういうメンツに行動を全て支配されるのは愚行なんです。
大事なのは自身のつまらないメンツではなく、自省するチャンスをもらったときにいかに意見を反芻できるかということだと思います。
感情はエネルギーの源ですが、感情をコントロールできる冷静な激情家でありましょう。
でもマジ弊社腹立つわ。爆発しねえかな。
学生時代、現代文の成績がとてつもなく良く、一生作者の気持ちに寄り添って生きていけると自負していた私だが、実は本を読む習慣が全くない。
親は「もっと本を読みなさい」という謎の価値観を押し付けてきたが、古来の文豪の作品を流して読んだところで、ちっとも興味をそそられなかった。
語彙力や文章力が十分あるのに、特に関心のない本を強制的に読ませることに何か意味があったのだろうか。未だにわからない。
そもそも、私は昔からかなりのオタク気質を発揮しており、特にインターネットメディアに触れてからは完全にその虜と化していた。
元から瞬発的な頭の回転が求められる対話よりも、じっくり考えて答えを出せる文語の方が性に合っていたのだろう。
リアルタイムに相手から発信され続ける電子化された文章は、堀部少年の心にジャストミートした。
いつの人間が発信したかわからない古文より、今をしっかりと生きていることがわかる現文に惹かれたのだ。
そんな行程を経て、浅学で無知蒙昧な私である。過去に培った語彙力も、かなり陳腐化していて誤記誤用に怯えるように成り果てている。
知識を累積していくことを習慣化してこなかったツケは、この歳になってまざまざと実感する羽目になっている。
何をやるにもとりあえず一から「調べて」「理解する」ところから始まるので、いざ物事を始めるためのエネルギー必要量が多くなってしまう。
そうなると、自分にはできなさそうなことをすぐに諦めてしまう癖がつく。人生の無気力化を誘発しているのだ。
このままじゃいかんと思い立とうにも、たくさん本を読むこと自体に興味があるわけではない。
じゃあどうやって知識をつけるんだ?ってなったときに、ふと自分のやろうとしていることを思い返し、閃いた。
『なんだ、人のブログをたくさん読めばいいじゃん。』
すごいじゃんこれ。無料で読み放題。どんなジャンルでも網羅してる。良文駄文が玉石混淆でも、逆に情報判別能力がつくと思えばいい。
しかも今を生きている人間の文章と関われば、もしかしたら自分の文章に興味を持ってもらえるかもしれない。一石二鳥じゃん。
本当に、「知識を得るには本を読むべき」っていう今までの固定された価値観はなんだったのだろう。
無意識的に“これはきっと常識だ”と思い込んでいることは、あといったいどれくらいあるのだろう。
努力を怠ってきた自分の人生を、なんとかプラスに揺り戻そう!とかつて決起した頃の気持ちを思い出した。
もし学がないのであれば、自らに学がないことを認め、今自分なりに何ができるか考えてみることだ。
あの時こうしていれば…という後悔や自責の念は何も生み出さない。
その境地に至るまでのプロセスは全て必要なことだった…と思う方が、よっぽど生産的だろう。
最終的に編み出した方案が身の丈に合っていれば、それでいい。
崇高じゃなくていい。