崇高じゃなくていい

 

 

学生時代、現代文の成績がとてつもなく良く、一生作者の気持ちに寄り添って生きていけると自負していた私だが、実は本を読む習慣が全くない。

親は「もっと本を読みなさい」という謎の価値観を押し付けてきたが、古来の文豪の作品を流して読んだところで、ちっとも興味をそそられなかった。

語彙力や文章力が十分あるのに、特に関心のない本を強制的に読ませることに何か意味があったのだろうか。未だにわからない。

 

 

 

 

そもそも、私は昔からかなりのオタク気質を発揮しており、特にインターネットメディアに触れてからは完全にその虜と化していた。

元から瞬発的な頭の回転が求められる対話よりも、じっくり考えて答えを出せる文語の方が性に合っていたのだろう。

リアルタイムに相手から発信され続ける電子化された文章は、堀部少年の心にジャストミートした。

いつの人間が発信したかわからない古文より、今をしっかりと生きていることがわかる現文に惹かれたのだ。

 

 

 

 

そんな行程を経て、浅学で無知蒙昧な私である。過去に培った語彙力も、かなり陳腐化していて誤記誤用に怯えるように成り果てている。

知識を累積していくことを習慣化してこなかったツケは、この歳になってまざまざと実感する羽目になっている。

何をやるにもとりあえず一から「調べて」「理解する」ところから始まるので、いざ物事を始めるためのエネルギー必要量が多くなってしまう。

そうなると、自分にはできなさそうなことをすぐに諦めてしまう癖がつく。人生の無気力化を誘発しているのだ。

 

 

 

 

このままじゃいかんと思い立とうにも、たくさん本を読むこと自体に興味があるわけではない。

じゃあどうやって知識をつけるんだ?ってなったときに、ふと自分のやろうとしていることを思い返し、閃いた。

 

『なんだ、人のブログをたくさん読めばいいじゃん。』

 

 

 

 

すごいじゃんこれ。無料で読み放題。どんなジャンルでも網羅してる。良文駄文が玉石混淆でも、逆に情報判別能力がつくと思えばいい。

しかも今を生きている人間の文章と関われば、もしかしたら自分の文章に興味を持ってもらえるかもしれない。一石二鳥じゃん。

本当に、「知識を得るには本を読むべき」っていう今までの固定された価値観はなんだったのだろう。

無意識的に“これはきっと常識だ”と思い込んでいることは、あといったいどれくらいあるのだろう。

 

 

 

 

 

努力を怠ってきた自分の人生を、なんとかプラスに揺り戻そう!とかつて決起した頃の気持ちを思い出した。

もし学がないのであれば、自らに学がないことを認め、今自分なりに何ができるか考えてみることだ。

あの時こうしていれば…という後悔や自責の念は何も生み出さない。

その境地に至るまでのプロセスは全て必要なことだった…と思う方が、よっぽど生産的だろう。

 

 

 

最終的に編み出した方案が身の丈に合っていれば、それでいい。

崇高じゃなくていい。